趣味のサーフィンを通してお世話になっている先輩、ムラさんがコーヒーにハマったのは5年前のこと。某店で飲んだコーヒーの美味しさに驚いてからというもの、いろんな店のコーヒーを飲むようになったそうだ。
ある日の海上がり、車で休憩していると、隣に停まったムラさんのハイエースからガリガリと音が聞こえた。見るとムラさん、携帯用のハンドミルでコーヒー豆を挽いている。至って真顔である。
「それ、わざわざ持ってきたんすか」
先の細いヤカンをバーナーの火にかけて「美味しいの飲みたいから」と、ハンドルを回している。誰もいない鳥取の海辺。ムラさんは豆を挽き、僕はムラさんに引く。
「ほい。飲んでみ」
…淹れてもらったコーヒーは、とても酸っぱかった。これが、うまいのか?酸っぱいだけじゃないか…と顔を上げると、ムラさんは自分の一杯を淹れるべくヤカンを揺らしている。至って真顔である。
それからというもの、僕は海で会うたびにコーヒーをご馳走になった。ムラさんはいつも、産地とその特徴を教えてくれた。
「これはエチオピア。爽やかで明るい酸味」
「今日のはコロンビア。甘みと、クセのないストレートな苦味」
はぁ、確かに、そう言われればそんな気がする…というド素人感覚で、僕はムラさんの説明を聞いた。
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ムラさんに淹れてもらったコーヒーを飲むようになって半年ほど経ったある日、ムラさんの家に遊びに行くと、見たことのない機械があった。
「何すかこれ」
「焙煎機。自分で焼こうと思ってな」
焙煎機。
自分で。
焼こう。
はて…と、改めて機械を見ると、下にはグレーのタンクがあって、そこに横書きでムラさんの名前が入っている。
「何すかこれ。ガス?」
「そう。プロパン。都市ガスより水分が少なくて火力が安定するらしい」
「はぁ…ほんで、これで焙煎って、えらいデカいですけど、豆はどうするんすか?」
「輸入」
ちょっと何言ってるかわからないが、ムラさんは至って真顔である。
しかしムラさんは普段、機械のメンテナンスの仕事をしている。そして週末は海。いつ焙煎するんすか?と聞くと、平日の夜、仕事から帰ってきてからやるそうだ。これが本当の焼こう性である。
ちなみに、この日以降、僕はムラさんを「コーヒーにハマった先輩」として、X(旧ツイッター)にアップしている。これもずいぶん長いスレッドになった。Xユーザーの方はお時間ある時にどうぞ。
「コーヒーにハマった」という先輩の家に遊びにきたら焙煎機がある。ハマりすぎではないだろうか。 pic.twitter.com/RSEFXCBSqM
— 唐木俊介 (@s_karaqui) December 30, 2019
ところで、ムラさんは真面目である。たぶん、時間さえあればいつも焙煎しているに違いない。いつだったか、家に遊びに行くと、毎回の焙煎データを書き取って蓄積したファイルがものすごい厚みになっていた。
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サーフィン仲間たちはみんな、ムラさんのコーヒーを飲むようになった。海で会った時だけでなく、ムラさんから買った豆を自分の家で挽いて飲むようにもなった。味に馴染んできた僕も、海でムラさんが淹れてくれたコーヒーをひと口飲んで「これは…エチオピア?」「インドネシア?」と、産地を当てるのを楽しむようになった。自分もどんどんコーヒーが好きになっていく実感があった。
そんな僕や周りの海仲間とは比べ物にならない熱量とスピードで、ムラさんはコーヒーにハマっていく。ある日、ひと口目でレモンティーのような爽やかな酸味を感じて、自信満々に「エチオピア」と答えると「惜しい。これはケニア」と返ってきた。いやケニアて。ケニア初めてやし。新しい産地やし…と、ふた口目を飲んでいると「ケニアの焙煎にはまだ課題が沢山あるんよ。この前師匠に飲んでもらったら『もっと引き出せるとこあるよ』って言われてな」とムラさん。ちょっと何言ってるか分からないが、至って真顔である。
「インドネシア」と答えると「いや、これは東ティモール」と返ってきたこともある。もはや国の位置すら分からない。急にティモられても答えられるわけがないのである。
「コロンビア」と答えると「惜しい。これはコロンビアとインドネシアのブレンド」分かってたまるか。ブレンドすな。
「これはグアテマラ」と、最初から僕が分からないと踏んで、先に答えを教えてくれることもある。「これはグアテマラのウエウエ○△⬜︎」「はい?ウエウエ何すか?」「ウエウエテナンゴ」「ウエウエ、テナンゴ?」「そう、ウエウエテナンゴ」もはや産地名なのか何なのかも分からないが、言われてみると確かにウエウエがテナンゴしていた。
最近では「これはインドネシアのキンタマーニ」とムラさん。僕は顔を上げた。「インドネシアのバリ島に『キンタマーニ高原』っていう産地があって」ムラさんは真顔で続けるが、僕の頭に「キンタマーニ」以降の話は入ってこない。「…スッキリした苦味とコク…あとキャラメルみたいな」いや全然入ってこない。しかし話し続けるムラさんは至って真顔である。そんな地名が本当にあるのかとスマホで検索すると、とあるコーヒーのサイトに「キンタマーニ・ウォッシュ」という見出しが出ていた。僕は危うくコーヒーを吹きそうになった。味はともかく、名前だけは確実に覚えた。
「まあ、そんなに簡単に分かるもんじゃないよ」とムラさんは言う。訓練が必要だと。そういえば、いつかムラさんの家のテーブルに、大きめのお猪口みたいな白いカップが並んでいたことがある。
「これはコーヒーの味を評価するために使うんよ。それぞれに11gずつ挽いた粉入れて、沸騰したお湯入れて4分経ったらブレイク。あっ、ブレイクってのは混ぜること。3回な。で、アク取ってから啜るんよ。チーッ、いうてな」ちょっと何言っているか分からないが、ムラさんは至って真顔である。多分チーッと啜りながら、夜な夜なソムリエみたいなことをやっているのだろう。真面目か。
各地でコーヒーを飲み歩き、基本的な道具を揃えるだけにとどまらず、プロパンガスを契約し、焙煎機を購入。いろんな産地の豆を仕入れて、自分で焙煎。それにしても、ハマりにハマったな…
と、驚くのはまだ早かった。
去年の夏、3ヶ月ぶりくらいに海でムラさんに会った時のこと。
海の上で並んで波待ちしていたら
「そういえば俺、車買ったんよ」と言う。
「えっ!そうなんすか!何買ったんすか?」
「ベンツ。ベントラ。今はまだハイエース乗ってて、ベンツの中を作ってる」
曰く、メルセデスベンツのバン、通称ベントラを中古で買って、キッチンカー兼サーフィン仕様に改造しているとのこと。マジすか…と驚いていると、
「来年いっぱいで会社やめる。再来年からコーヒーでやっていく」
僕は波待ちしているボードから落ちそうになった。
「焙煎した豆の販売が主だけど、地元のイベントにも参加してコーヒー出そうと思ってる」
と、ちょうどそこへ形の良い波がきた。ムラさんはくるっと向きを変えて颯爽と乗っていった。
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つい先日、海で久しぶりにムラさんに会った。
相変わらず忙しくしているムラさん、ここのところ頻繁に街のイベントに出店したり、焙煎した豆を販売したりしている。最近は仕入れ先の開拓で海外の人たちとやりとりしているそうだ。なかなかサーフィンできないんじゃないですか?と聞くと「そうね。でも今年いっぱいで会社辞めるし、そのあとは平日にサクッと来たりできるし。あと来年は仕入れを兼ねてインドネシア行こうと思ってる。バリに」「いいっすね」バリは世界中からサーファーが集う聖地である。しかも、バリといえばあのキン、まあそれはいいや。
さて、ムラさんがコーヒーにハマったのは5年前、44歳の時である。しかし、某店のコーヒーの美味しさに驚いた瞬間に「これだ」と思い立ったわけではないだろう。少しずつゆっくりと、こうなったはずだ。ムラさんが今日までに一体何キロの豆を焙煎したのか、何杯のコーヒーをドリップしたのか、計り知れない。ムラさんは、5年間、毎日取り組んできた。今日もドリッパーをセットし、自分で焼いて挽いた豆をセットしているはず。それをずっとやってきたのである。毎回毎回、1杯ずつ丁寧に湯を落とした、コーヒーフィルターの向こう側に出来上がっていたのは、コーヒーだけではなかったということである。
(了)
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