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ろくなもん【3】

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最勝寺から帰って玄関の戸を開けると、奥の方から姉の恵美子が呼んだ。

「純かね。早うきて。ご飯手伝うてえ。母ちゃんしんどうて寝とるけえ」

「どこをほっつき歩きよったんなら、こんなら、遅いのう」

廊下ですれ違った父親が純の頭を小突いた。台所では恵美子が大根を細かく刻んでいた。ここ最近の献立は、大根と大豆カスを混ぜて炊いた雑炊ばかりであった。母親は身篭っており、腹が大きかった。

 

「おお、そういやさっき岡本君が来てのう」と、後ろから父親が話しかけた。「明日から比治山橋らしいど。朝七時半に集合じゃそうな」

 

「知っとる。今日先生が言いよった」

「土間に置いとるハンマー持って行きゃあええ」

「ノコギリはないん」

「ノコはありゃあせんわい。ハンマー持っていけえ」

 

 

五月に入って、純たちは皆、建物疎開に駆り出されるようになった。空襲を受けた時に火災が広範囲に渡るのを防ぐため、建物を壊して防火地帯をつくる作業である。解体作業に使用できる工具が家にある者は、各自持ってくるよう言われていた。純は父親から渡された、柄の長さが五十センチほどある大きなハンマーを持って、比治山橋周辺で疎開作業をすることとなった。

 

現場では区画ごとに担当する学校が決まっており、純たちの隣の区画では広商(広島商業学校)の生徒が作業していた。広商は、いわゆる市内のエリート校である。悪評の高い松商と秀才の集まる広商が、道を一本挟んで、朝から夕方まで作業に勤しんだ。

松商の区画は、作業が早かった。実際に作業が始まって、同じような家を一軒壊すまで、広商が三日かかるところを、松商は二日で終えた。気性の荒い生徒が多い松商の方が、このような作業に向いていたのかもしれない。道具を持参していない学生は、剥がした瓦や取り外した建具を運ぶ作業が主だったが、松商の生徒のうち、体格の良い数人は柱をロープで引き倒す時など、兵隊に呼ばれて手伝うことも多かった。

あるいは、松商の区画を指揮する兵隊が有能だったのかもしれない。現場では区画ごとに一人の兵隊が作業を指揮していた。松商の区画を担当していたのは、河田という、頭の禿げ上がった老人であった。兵隊といっても、若くはない。若い人間はみんな戦地へ行ってしまっており、学生をまとめているのは皆、年寄りばかりであった。河田はいつも不機嫌で、ことあるごとに動きの悪い者を怒鳴りつけて回るのだった。見た目にも迫力があり、河田の下で作業する学生たちは、さぼるということが一切できなかった。

 

隙を見ては休もうとする純は、すぐに河田に目をつけられた。松商の教員が何か吹き込んだのかもしれない。初日、ハンマーで内壁を壊していた純は、すぐに外で瓦運びをするよう命じられた。河田の目の届きやすいところに置かれたのであろう。

 

外に出ると、オカモトが荷車に瓦を載せる作業をしていた。

「純ちゃんどしたんなら、ハンマーは」

「外へ出え言われたんじゃ。かわらをはこべ言うて」

「こりゃあえらいのう。あれ見てみい。ずっとむこうまで家があるのを、みなこわすんじゃて。こぎゃあなもん、終わりゃあせんで。こうよなこと、いつまでやらされるんかのう」

「アメリカに勝つまでじゃろうて」

「どうなろうに。勝てるもんかいね」

と、無駄口を叩いていると、すぐに河田がやってくる。「喋りよらんと運ばんか」

純はオカモトの後ろについて、瓦を荷車まで運んだ。

 

 

ある日の休憩時間、純が柱にもたれて休んでいるところへ、河田が薬缶を持ってやってきた。

「片山、これへ茶を入れてこい」

この休憩は、四棟目の作業が隣の広商よりも早く進んでいたため、河田が皆を労って与えたものであった。しかし、河田の指示通り歩いて倉庫まで行き、茶を汲んで戻れば、休憩が終わってしまう。薬缶の茶は、義勇隊の隊員や河田たち兵隊が飲むもので、いつも定刻になると係の兵隊がトラックで運んでくるのだった。茶をいっぱいに汲んで持ち運べば、かなり重いであろう。なんでわしだけ、と、純は納得がいかない。

「なんならその目は。早う行けえ」

と、河田が凄んだ時、オカモトがやってきて純の腕をつついた。「純ちゃん、ワシも行くけえ、行こうやあ」このことがきっかけで河田の機嫌が悪くなると、周りの生徒から文句を言われるのは純ではなく、純と仲の良いオカモトなのである。純は腫れ物。皆、オカモトには言いやすい。

純とオカモトは空の薬缶を持って倉庫へ行き、河田の名を出して、係の兵隊に薬缶いっぱいまで茶を汲んでもらった。礼を言って外へ出ると、純はオカモトの腕を引き、来た方向とは反対の廃材置き場まで歩いた。瓦礫の山に隠れた純は、オカモトを呼び寄せて「飲め。ちいと少のうせえ」と、薬缶を渡した。

「は。飲んでどうするんな」

「ええけえ、飲め」

「飲め言うて、わしゃいらんわい。へったんがわかりゃあ、また河田にやられるで」

「へらしゃあせんわい」

躊躇うオカモトから薬缶をふんだくった純は、注ぎ口を咥えて、ごくごくと茶を飲んだ。茶といっても、何の葉かも分からない出涸らしは、気休め程度に味がついた色水に過ぎない。

「よし、ちいと持っとれ」純は薬缶の蓋を外してオカモトに渡すと、ズボンをずらした。すると、股上から手を突っ込んで陰根を持ち出し、薬缶の中に小便を放った。じょろじょろと音が鳴り、中身が泡立つ。オカモトは目を見開いた。

「なっ、何をしよるんなら」

跳ねた小便の粒が、純の手や、薬缶の肌に散っている。

「お前もせえ。なあに、ちいとうすめるだけじゃ」

いくら勧めてもオカモトは渋るばかりである。見かねた純は歩き出した。

「しょうもないやつじゃのう」

「急に言われても出んもんは出んわい」

 

純とオカモトが作業場に戻ったのを見て、河田が「作業始め」と号令をかけた。辺りに座り込んでいた生徒は皆一斉に立ち上がり、それぞれの持ち場に戻っていった。河田はこちらを見ている。

「遅かったのう。ほれ、早うかせ」

「はい」純は薬缶を差し出した。

「早う戻れ。瓦が終わりゃあ障子じゃ。障子が終わりゃあ広商を手伝うちゃれ」

「はい」

純は一礼して、駆け足で作業に戻った。先に戻っていたオカモトと目を合わせ、また瓦を運び始めたが、腹が震えて、力が入らない。

 

 

--続く--

 

 

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