比治山橋周辺での疎開作業がひと段落して、松商の生徒は東練兵場の開墾作業に従事することとなった。広島駅の北側に広がる広大な軍用地の一部を、サツマイモ畑にするという。市内各校から多くの生徒がやってきて、作業に勤しんだ。
純は、底がない、と思っている。来る日も来る日も、ひたすら身体を動かさなければならない。
松商に入って四ヶ月が経ったが、やってきたことは労働のみであった。勉強をしたくて学校に入ったわけではないが、勉強というものをしてみたい。硬く乾いた地面に鍬を振り下ろしながら、純は思う。
松商には野球部があると聞いていた。入学して数日たったある日、かねてから野球に興味があった純は、休憩時間に野球部らしき集団が使っていた運動場の一画を訪ねた。運動場といっても、そのほとんどは畑や鉄屑置き場として使われており、彼らが使っていたのは十五メートル四方ほどの空間だった。数名の上級生がボールを投げ合っているところへ行って、自分も混ぜてほしいと言うと「手袋持っとるんか?」と聞かれた。「手袋」とは、グローブのことである。当時は布を厚く巻いた手袋を使っていた。純が首を横に振ると「手袋を持っとらんもんは入れん」と一蹴されたのであった。家に帰って母親に作ってくれと頼んだが「そんなもんに使う銭はありゃせん」と軽くあしらわれた。
それから数日の間、休憩時間になるたびに遠くからボール投げを見ていたが、どういうわけか、一週間ほどで上級生は皆いなくなった。と、その二週間後に、純たち一年生が建物疎開に駆り出されるようになった。結局、学校へ通ったのは一ヶ月弱である。通ったといっても、松根掘り、松脂採り、運動場の開墾といった作業しかしていない。この年の春から夏にかけて、学生たちの生活に学業や色恋、娯楽といった要素は、皆無であった。ただ、兵隊たちに言われるがままに身体を動かすしかない。
遠くで、鐘が鳴った。作業開始五分前の合図である。昼の休憩も、日を追うごとに短くなっていく。
「つまらんのう。もう行かにゃあいけんわい」と、空になった弁当箱の底を舐めながらオカモトがぼやく。
「ほんまにつまらんわい。見てみいや。ワシらくらいの学生ばっかり、ぎょうさんおるで。三原やら福山の方から来とるのもおるんじゃて」
「こがあなとこでイモ作ったけえいうて、どうなろうに」
純とオカモトが話していると、後ろから「ちょっと、さぼっとらんと、ちゃんとやりんさいや」と声がした。振り返ると、岡林のトミコが立っていた。
「トミちゃん」
「おお、トミちゃんか、久しぶりじゃのう。おったんか」
「うん、うちらは八班。あっちの方」
トミコは東白島にあるパン屋「岡林製パン」の娘である。純の三つ年上で、市女(第一高等女学校)に通っていた。現在の舟入高等学校である。幼少の頃は純の家の三軒隣に住んでいて、純もオカモトも、トミちゃんと呼んで慕っていた。その頃は「パンの岡林」という看板を立てて自家製のパンを売っていたが、住居兼店舗が手狭になったのか、三年ほど前に少し離れたところに新しい店舗を建ててからは「岡林製パン」と屋号を変えて営業していた。近くに住んでいた頃、昼過ぎに店が閉まったのを見計らっては、余ったクリームをねだりに行ったものだ。店が移転してトミコが女学校に進んでからは、滅多に会うことがなかった。最後に会ったのがいつだったか、純は思い出せない。
「あんたら、ちったあ真面目にしよるんね。どうせまた悪さばっかりしよるんじゃろう」
おかっぱ頭の煤けた顔。鼻の頭に、汗の粒が光っている。
「わるさなんかできるもんか、ずっと兵隊が見よるのに」オカモトが口を尖らせ、小さく言い返す。
「いつまでおるん」
「わしらは明日までじゃ。あさってからはツルミ橋に行かにゃあいけん。また家こわすんじゃて」
「そうなんじゃ。私らはもう一ヶ月くらいここにおるんよ。まだ当分おると思う。他の学校に負けんようにがんばりよるよ」
「トミちゃんはえらいのう」
「ワシらとは出来がちがうんじゃけえ」
「ほいじゃがトミちゃん、がんばる言うてから、こんなことしよっても、どうもならんじゃろう」と、オカモトが言う。
「わしらが集まっとるところにバクダンが落ちてみいや。みな死ぬるで。あほみたいに毎日集まってからなんやかんやしよるが、そこへ落としゃあ一発じゃ。ここへ何人おるかのう。これがみな死ぬるで」
オカモトの言うとおりであった。この東練兵場が空襲に遭えば、隠れる場所はどこにもない。ここで作業する大勢の学生が死ぬのは目に見えている。空から見ると、人間はどのように見えているのだろうか。純は、自分がアメリカなら、ここにバクダンを落とすだろうと想像した。少し前に、呉で大きな空襲があったという。「ぎょうさん死んだそうな」と、両親が話していたのを聞いた。
「しっ、あんたら大きな声でそんなこと言いんさんな。兵隊さんに聞かれたら怒られるよ」
「ええんよ。ワシらいっつも怒られよるけえ。なれっこじゃ」
「いっこも変わっとりゃあせんじゃない」トミコは笑った。「まあええわ。もう行かにゃあいけんけえ。あんたらもがんばりんさい」
駆け足で去るトミコの後ろ姿を見ながら、純は、岡林のパン屋で舐めさせてもらったクリームの味を思い出していた。
オカモトの方を見ると、自分の坊主頭を掻きむしっては、その爪を嗅いでいる。
--続く--