純の家から鶴見橋まで、歩いて四十分ほどの距離であった。昨日まで通っていた東練兵場までの道のりの、凡そ倍の距離である。七時前に家を出た純は、左肩に弁当を入れた鞄をかけ、右手にハンマーを持ってオカモトの家に向かった。
純の家の裏通りを百メートルほど西へ歩いたところにある荒物屋が、オカモトの家だった。いつもは家の前に出ているはずのオカモトがいないので仕方なくその場で待っていると、奥から母親が出てきた。
「純ちゃんおはよう。あのねえ、サダオは熱があってねえ、ほいで昨日から下痢して大変なんよ。今日は休ませるけえ。先生に言うといてくれるかね」
「はあ」
「昨日暑かったじゃろ。弁当が悪うなっとったんかもしれんいうて言いよったわ。大豆カスの混ぜご飯を入れとったんじゃが。あの子なんか言いよったかね」
「いや、なんも」
「ほおね。まあすぐ良うなる思うけえ、今日は純ちゃん一人で行ってえ。道はわかるんかねえ」
「うん、この前まで比治山橋に行きよったけえ」
「そうじゃったね。がんばりんさいよ。いってらっしゃい」
純は首から上だけでこくっと礼をして、また歩き出した。
オカモトの家を出て少し経ってから警戒警報が鳴り出したが、敵機が飛ぶような音は聞こえなかった。周りの通行人も、時々空を見上げる程度で、防空壕に逃げることもなく道を歩いていた。陸軍兵器部の脇をとぼとぼ歩きながら、純は昨日の昼休憩を思い出していた。オカモトは、弁当が臭いと言っていた。倉庫の荷物置き場に置かず、アルミの弁当箱を布袋に入れて、日が当たる場所に置いていたのが悪かったのかもしれない。確かに、八月に入って少し暑くなった。
「くそうても食わにゃあやれんわい」と、オカモトは大豆カスの混ぜ飯を睨んでいる。
「ちいとにおわせてみい」と鼻を近づけると、微かにすえたにおいがした。一瞬、目を見開いたが、純はすぐに澄ました顔を作った。
「なんにもくそうないわ。ワシが食うちゃろうか」
「ほうかのう、ワシはちいとくさいような気がするんじゃが」
「鼻がばかになっとるんじゃろう」
「ほうかのう、ほうか、ほうじゃろうのう」
オカモトは大きめのひと口を取り、鼻に近づけて少し嗅いでからわざとらしく口に入れた。困ったような顔でもぐもぐと口を動かし、ごくりと飲み込んで、何事もなかったような顔で言った。「おお、ぜんぜんくそうない。いつもと変わりゃあせん」
純は、オカモトのこういうところが憎めない。
八丁堀を抜けて銀山町に差し掛かった頃、警戒警報は止んだ。十五分ほど鳴っただろうか。その間、何度か空を見上げたが、結局純が敵機を見ることはなかった。
鶴見橋の西詰には、多くの学生が集まっていた。松商の一団をまとめる担当教員は、西野という若い男だった。西野は脚が悪い。それが理由で戦地に採られなかったという。純は西野にオカモトの件を告げると、列の最後尾に並んだ。松商の右隣には見たことのない制服を着た学生たちが集まっており、左隣には近隣の工場から派遣された義勇隊が列をなして並んでいた。と、その中に見覚えのある顔があった。あんなに背が高かったろうか。顔もなんとなくごつごつしている。純がじいっと見つめていると、やがて向こうもこちらの視線に気づいた。
「ありゃあ、純か」
「やっぱり、ケン兄じゃ」
「おお、久しぶりじゃのう。元気にしよったか。松商へ行きよるんか」
「うん。学校はぜんぜん行っとらんけど。しんどいわあ」
「お国のためじゃろ、もうひと踏ん張りじゃ」
相変わらず真面目である。真面目な人間は皆口々に「お国のため」「にっくきヤンキイ」などと言う。
ケン兄は牛田神田区の藤田錺工店という板金屋の次男で、純より二つ年上だった。昔は白島に住んでいて、純が幼少の頃はよく遊んでもらっていた。親同士も仲が良く、今年の正月にケン兄の両親が家に来たのを純は覚えている。その時、ケン兄は一中(県立第一中学校)から東洋工業へ動員され、銃を作っていると聞いた。東洋工業は三輪トラックの製造で発展してきた大会社だが、数年前から軍部に管理されており、銃器類の製造を命じられていた。
「ケン兄、テッポウ作りよるんじゃて」
「作りよるもんか。材料がありゃせんわい。ありゃあ去年の話よ。最近はずっとトンネル掘りよったわい。空襲で機械を壊されんように逃すんじゃ。機械言うても大きいけえのう。幅が五メートルくらいあるど。こうよに大きなトンネルよ」
ケン兄は両手を大きく広げて示した。
「なんじゃあ、テッポウ作りよるんか思うとったわ。ワシも昨日まで練兵場で土掘りよったよ」
「ほうか、ほいで今日から建物疎開か。大きなハンマー持ってから」
「これ持っとりゃあ家ん中おれるけえ」
「馬鹿じゃのう。さぼろう思うてから。おい、もう鐘が鳴るわい。行かにゃあいけんけえ。またの」
「うん」
ケン兄は純の肩をぽんと叩いて、義勇隊の列に戻っていった。と、その直後、遠くで誰かが鐘を鳴らした。八時の合図であった。
--続く--