唐木俊介のブログ

none

ろくなもん【6】

投稿日:

 

 

松商の生徒は、鶴見橋の西詰から百メートルほど南側にある倉庫まで集団で歩いた。

 

川沿いの風が心地良い。純はきらきらと光る川面を眺めた。水のにおいがする。向こう岸に、いくつか雁木があるのが見える。去年の今頃は、この京橋川の少し上流でオカモトと手長エビを獲って遊んでいた。たった一年で、ずいぶん変わってしまった。 ー しんどうなったわい。ー  そんな人間の事情などつゆほども気にせず、ただゆったりと流れる澄んだ水の帯が、純は少しうらやましい。 ー ここを泳ぐんは気持ちがええじゃろうのう。なんも考えんでええわい。ー  純は、ぴっ、ぴっ、と身体を弾くように泳ぐエビの気持ちを考えるなどした。

 

「ここじゃ」西野が手を挙げて制した。「この二階建ての倉庫じゃ。皆おるか」

一団は荷捌きの前で三列縦隊に並び、西野が改めて点呼を取った。片足を引きずりながら、返事のする方を見て出席を確認している。背の高いもんから順番に並んどるけえ見にくいんじゃ。低いもんから並びゃあみな見えるじゃろうが。とは言わず、小柄な純は列の後方で点呼の様子を眺めている。

 

やがて、東洋工業の義勇隊から派遣されてきた男が作業の説明を始めた。

「ええか、一班はこの裏の家じゃ。二年が昨日引き倒したまんまじゃけえ、瓦がついたままになっとる。みな剥がして荷車で運ぶこと。あとガラの整理。二班はこの倉庫じゃ。今日中に引き倒すけえ、まずは二階から。道具を持っとるもんは」

男が説明していると、遠くから飛行機の音が聞こえてきた。音はどんどん大きくなる。

誰かが「あっ」と声を上げた。「ありゃあB29じゃ」

皆、空を見上げた。

「ちがおうて。警報も何も鳴っとりゃあせんじゃない」

皆と同じ方角を見上げると、銀色に光る飛行機が西の方へ飛んでいくのが見えた。

「ありゃあB29よ」

「ほうじゃほうじゃ。B29じゃ」

口々に言うが、誰も逃げ出すことなくその場に立っている。純も皆と同じく、その場で空を見上げた。どうせ空襲などされないだろうと、純だけでなく、その場の皆が思っている。現に、純は一度も空襲というものを受けたことがない。警報が鳴るたびに防空壕に逃げ込むが、飛行機はいつも、ただ通り過ぎていくだけなのであった。昨日の夜中も、今朝もそうだった。警戒警報はわんわんと鳴るが、結局何も起こらない。

皆、雲ひとつない青空にぽつんと漂う飛行機を眺めていた。

と、銀色の機体が建物の影に隠れる間際、飛行機から、なにか白いものがひらりと落ちたように見えた。

「ありゃ、なんか落としたど」目の前に立っていたクボタが言った。

「なんじゃろうか」

「ビラかのう」

「ああに高いとこからビラまきゃあせんじゃろうに」

皆、口々に話し始めた時である。

 

空が、ぴかっと光った。それは直視した太陽が落ちてきたような眩しさであった。真っ白な光が純の眼を刺した。そして次の瞬間、地を揺らすほどの轟音とともに、黄金色の熱風が純の身体を突き抜けた。爆音は腹や尻の奥深くまで響き、頭の骨が、めりめりっと鳴った。

 

***

 

「えやあ、えやあ」と、誰かの泣くような呻きが聞こえて、純は意識を取り戻した。辺りは真っ暗で、息を吸えば喉が詰まるほどの埃が立ち込めている。思うように身体が動かない。誰かが「ぐぐ、ぐ」と、呻いている。どこからか、焦げたようなにおいがする。

 

「かっ、片山くん」

クボタの声がした。

「クボタか」

「ほうじゃ。片山くん、起きい」

クボタらしき人影があるが、はっきりとは見えない。目をこらすと、純に差し出すその手から、何かがだらりと垂れている。驚いてクボタの顔を見上げ、もう一度手を見下ろした。それは、皮であった。真っ赤に腫れ上がったクボタの頬や顎、鼻の頭、指先から、皮が溶け出したように垂れている。着ているものも、ぼろぼろに破れ果てている。

「クボタ、なんじゃあ、手やら顔やらどしたんなら。ほおべたが、皮がたれとるじゃあないの」

「なんじゃあいうて、片山くんもなっとるわい」

慌てて顔を触ると、確かに皮が垂れているような手触りがある。ただし、痛みはまったくない。血も、出ていない。着ている服はクボタのように破れていなかった。

「こりゃあ何なら」

「そこらへバクダンが落ちたんじゃろうか。あれを見てみい。カベが吹き飛んどるわい」

クボタが差す方を見ると、建物片側の壁が無くなって、骨組みだけになっている。屋根も、ところどころ崩れ落ちている。

 

純がようやく立ち上がり、開かない目に力を入れて辺りを見回したその時、遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。

「にげえ」

「川へにげえ」

 

その場に立っているのは、純とクボタを含めて四人のみであった。整列していた生徒の身体がいたるところに転がっており、其処此処から呻き声が聞こえる。純は両目の瞼を持ち上げて、もう一度辺りを見回した。少し離れたところに、家から持ってきたハンマーが落ちているのを見つけた。

 

クボタが、大きな声を出した。

「おい、川じゃ、川へ行かにゃあ、ここへおったらまたバクダン落とされるど」

 

純は、わけがわからない。

 

 

--続く--

 

 

 

-none

Copyright© なんかいいたい , 2024 AllRights Reserved.