唐木俊介のブログ

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ろくなもん【7】

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クボタが駆け出していった後、どうもその場を立ち去る気になれず、純は松商の生徒の身体をひとりずつ揺らした。「おい、おい」と、声をかけて回ったが、返事をする者は三人だけだった。他は皆、息をしていなかった。列の前方の数名は、顔が焼け炭のように黒く焦げており、頬から煙が出ている者もいた。建物の脇に倒れていた人影は、脚の曲がり方から、すぐに西野だと分かった。髪の毛が焼けほつれ、顔から首にかけて、うっすらと焦げている。死んだ人間を見たのは、これが初めてであった。周りから音が消え、自分の心臓だけが鳴っている。

「こりゃあなんなら」

純は誰に言うでもなく言い、立ち上がった。ふと、腿が濡れていることに気づいた。見ると、知らぬうちに小便を漏らしている。

 

時間が経つにつれて、立ち込めていた砂煙が少しずつ薄れ、だんだんと明るくなった。

表通りへ出ると、辺り一面、瓦礫の山であった。建物という建物はどれも壊れ果ててしまっている。連なって建つ重厚な建物は骨組みや壁の一部が残っていたが、木造の民家などはすべて潰れてしまっていた。道という道を、焼け焦げた人の群れがゆく。皆、だらしなく斜め前に垂らした腕の、その手の先から溶け出した皮が垂れ下がっている。

ふと横の方から「たすけて、たすけて」と女の声がした。声は潰れた家の瓦礫の中から聞こえているようであった。純は瓦礫を覆う屋根瓦を三枚ほど剥がした。中を除くと、根太の向こうに大きな梁が見える。その下に、誰かが生き埋めになっているようであった。うっ、うっ、と呻く声が聞こえる。

「だれか、この下に人がおるけえ、いっしょにたすけて」

純は大きな声で呼びかけたが、皆知らん顔で通り過ぎてゆく。仕方なく、ひとりでさらに数枚の瓦を剥がして、瓦礫の下を覗き込んでいると、誰かが後ろから声をかけた。

「おい、何をしよんなら。はよ逃げえ。燃えようるど」

顔を上げると、いつの間にか隣の瓦礫の山から火柱が立ち上っている。火はどんどんと燃え広がり、ぱちぱちと材が爆ぜる音がこちらに近づいてきた。

純はしばらく瓦礫の中を見つめていたが、やがて振り返って駆け出した。

 

鶴見橋のたもとに出ると、焼けた身体を冷やそうとしているのか、水を飲もうとしているのか、多くの人が河岸や橋の上から飛び込んでいた。しかしこの時、満潮である。水位が高く、流れも速い。飛び込んだ者は皆、吸い込まれるように流されてゆく。もがき苦しみ、声にならない声をあげる者、手足をばたつかせて岸に戻ろうとする者、無表情に虚空を見つめたまま流されてゆく者、腹が風船のように膨れた仰向けの犬、木片、「質 すずや」と書かれた看板。川面が、埋まってゆく。ついさっきまできらきらと輝きながら悠然と流れていた京橋川は見る影もなく、この世のものとは思えない光景と化していた。ここにクボタも飛び込んだのだろうか。幼少期から慣れ親しんできた京橋川、純は満潮時の流れがどのようなものか、よく分かっている。顔はひりひりと痛み、視界は狭いままだが、川に飛び込むことはなく、純は鶴見橋を渡った。欄干が、ところどころ燃えていた。

純は、クボタの「ここへおったらまたバクダン落とされるど」という言葉が気になっていた。アメリカは、空襲するなら人が多いところを狙うだろう。これだけ多くの人が川へ集まっているのだから、次は街ではなく、川へバクダンを落とされるのではないか。焼けた橋を渡る人の群れをかき分けて進みながら、純は思う。視界がどんどん狭くなる。純はときどき瞼を持ち上げて目を開いた。やけどの腫れがひどくなっているのだろう。こんな状態で、どこへ行けばいいのか。と、見上げると、小高い山が見えた。比治山である。

「あれじゃ」

山なら撃たれないだろう、バクダンを落とされないだろうと思ったのである。見ると、川へ向かう大勢の群れに逆らうように比治山の方へ歩いてゆく者もいた。橋を渡ると、純はやや早足で山の方へ向かった。

 

瓦礫の中から聞こえた「たすけて」という女の声が、頭に焼き付いて離れない。

 

 

--続く--

 

 

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