比治山は、標高七十メートルほどの小高い山である。丘と言ってもいい。
中腹まで登ったところで振り返ると、蟻が列を作ってぞろぞろと進むように、黒い影がふもとから連なっている。それは焼け焦げた人間の影であった。列は絶えることなく、京橋川沿いまで続いていた。その京橋川に、人間が飛び込み続けているのであろう。川面が、すべて埋まっているように見えた。
純がしゃがんでゲートルの紐を直していると、目の前に女が立ち止まった。着ていた服が焼け果てたのか、上半身が露出し、肩から乳房にかけて格子模様に黒い線が走っている。顔や手の皮はべろりと剥けて垂れ、髪の毛は焼けちぢれている。
「あう、あ、あう」
女が何か言うが、聞き取れない。
「なんですか」と聞き返したが、女は何も言わず、ただ純の顔を見たまま「あう、あう」と繰り返すばかりである。純は気味が悪くなり、黙ってその場を後にした。
さらに山を登ったところで、純は兵隊に呼び止められた。
「おい、ぼく、よう歩けるんじゃの。こっちへ来い。これを塗っちゃる」
手に黒い缶を持って木の根にへたり込んだこの兵隊も、純や他の人々と同じように、顔が焼けただれている。戦闘帽に隠れていたのだろうか、頭のてっぺんだけ髪の毛が残り、他の部分はきれいに剃り落とされたようになっている。
「おい、早うこい」
兵隊は缶から黄色い粘液を手に取り、それを純の頬に擦りつけた。頬、額と塗って、やがて顔全体に馴染ませた。その手はなぜか、小刻みに震えていた。痛みはないが、顔全体が熱を帯びて腫れ上がっているのがよくわかった。
「川へ飛び込んだけえいうて、いけるもんか。やけどがひどうなってしまうわい」
「こりゃあ何ですか」
「こりゃあグリイスよ。やけどしたら油を塗らにゃあいけんのよ。機械油じゃが、水よりはええはずじゃ」
兵隊は顔だけでなく、純の首や腕にかけてもごしごしと油を塗った。
「こりゃあ腕やらそがいに焼けとらんわい。えかったのう。ほいでぼく、どこへ行くんなら」
「いや、ようわからんのです。山へ登りゃあバクダン落とされんか思うて」
「これ以上登ってもしょうもないわ。道がありゃせんもの」
「はあ」
「それにもうバクダンは落とさんじゃろうて。あれ見てみい」
兵隊に促されて後ろを振り返った純は、両手で瞼を持ち上げ、息を呑んだ。
広島のすべてが、燃えていた。遠く、西の方まで、すべてが黒く焼けつき、いたるところから火が立ち登っている。
純は、鶴見橋の辺りが爆撃されたのだと思っていたが、そうではなかったようだ。遥か遠くの方まで、目にみえるものすべてが燃えているのである。白島はどうか。純は自分の家がある方角を探した。
「白島はあっちですか」
「おう、こっからはよう見えんがのう、あっこらが八丁堀じゃけえ、あの向こうじゃろう。家は白島なんか」
「はい」
「ほうか。わしゃあ牛田よ。こりゃあ牛田もだめじゃろうのう。皆やられとるわい」
牛田と聞いて、ケン兄の顔が頭に浮かんだ。今朝、集合場所で久しぶりに会ったケン兄の家は牛田である。ケン兄は大丈夫だろうか。そして白島の父は、母は、母のお腹の赤ん坊は、姉の恵美子は、オカモトは、大丈夫だろうか。
純は兵隊に礼を言い、歩き出した。
細く狭まった視界には、少し前の地面をしか映らない。両脇を、無数の泣き声や呻き声、髪の毛や肉、衣服が焦げた臭いが通り過ぎてゆく。これは、何なのか。あの閃光が走り爆音が轟いたのは、たしかに一度きりであった。空襲を受けると、たったひとつのバクダンでこうなるのか。焼け残った炭のように煙を吐く街や、家族の顔を思い浮かべながら、純はとぼとぼと歩いた。
ようやく山を下りて鶴見橋の方を見ると、人で埋まっている。いまだに川に飛び込んでいる者もいるが、そこに水面はない。川は、生きているのか死んでいるのかわからない人間の身体で埋まっている。
川の手前を上って駅の方から帰るしかない。と思い、歩き出したその時である。遠くの方から、
「じゃぁっ」
と、誰かが叫ぶ声がした。その直後、からんからん、がしゃっ、と大きな音がした。
「ひいっ」
「あぶない」
声の方を見ると、濛々と砂煙が立っている。
「ぎゃあっ」
次々と声が上がる。見ると、煙幕の向こうから黒く巨大な塊が、けたたましい音を立てながらものすごい速さでこちらに向かってくる。純は咄嗟に瓦礫の影に隠れた。
それは、牛であった。
肥引きの荷車を繋がれた、黒く大きな牛が、強烈な熱線と爆音のせいで気がふれたのか、猛り狂って走り回っているのであった。車輪の壊れた荷車は、其処此処の人間や瓦礫にぶつかりながら引き摺られている。綱で荷車に固定されていたはずの肥桶がいくつも散乱し、辺りには糞便の強烈な悪臭が充満している。牛は気狂いのまま、砂埃を立てて走り去っていった。
辺りに散らばった糞尿を踏まないよう気をつけながら、純は、自分が死んだ後の世界を歩いているような気がしている。
--続く--