純の家も、最勝寺も、すべて焼けていた。白島には、家族をはじめ、知っている顔はひとりとしていなかった。
最勝寺の前で休んでいると、軍部のトラックがゆっくりと走ってきた。
「東練兵場、東練兵場に避難せよ」兵隊が大きな声で呼びかけている。
それを聞いた人々は、常盤橋の方へ向かって歩きはじめている。純もなんとなく立ち上がった。
常盤橋のたもとに出ると、橋の上も、川の中も、逃げ惑う人々で埋まったままであった。純は少し北へ歩き、鉄道の線路を通って川を渡った。見渡すと、大勢の人々が東練兵場を目指していることがわかった。燃え盛る炎や煙の中、どこにも居場所がないのだろう。練兵場は多くの人で溢れかえっているはずだ。これから行ったとして、本当に家族に会えるのだろうか。純は、どうにも気が進まず、踵を返した。練兵場よりも、横川に住んでいる祖母の家に行ってみようと思ったのである。祖母の家で誰にも会えなければ、己斐へ行こう。己斐には栄太おじさんの家がある。純は線路の上を引き返し、そのまま横川方面へと歩いた。
線路を伝って一時間ほど歩き、横川の祖母の家へ辿り着いたが、ここも他と同様、ひどい有様であった。瓦礫からは濛々と煙が上がっていた。祖母の姿も、気配もない。人々は西の方へ避難しているように見えた。こうなると、己斐へ行くしかない。純は南へ向かった。祖母の家から南へ下って、大通りを西へ向かえば己斐に行けるはずであった。父親と何度も通った道である。
純はひとつ橋を渡って寺町に入り、そのまま路面電車の線路沿いを南へと歩いた。大きな通りに出たら、そこを右に曲がればいい。時々両手で瞼を広げ、辺りを見渡しながら、とぼとぼと歩いた。
ところが、十分ほど歩いたところで、純は自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。街が、なくなっているのだ。純はこの時、寺町から土橋の方へ路面電車の線路沿いを歩いていたが、この辺りは文字通りの焼け野原と化していた。建物という建物はすべて吹き飛んでしまい、どこにどのような建物があったのかもわからない状態であった。唯一の目印である路面電車の線路も、途中で瓦礫の山に覆われてしまっていた。朝の爆発ののち、純は鶴見橋から比治山へ、比治山から広島駅の南を経由して白島へ、そこから横川へと歩いてきたが、今歩いているこの場所ほど焼け果てたところはなかった。目の前の瓦礫を手で触ってその熱を確かめながら、少しずつ前へ進むしかなかった。
しかし、いくら歩いても大通りに出ない。不思議に思って振り返った時である。左足に激痛が走った。見ると、倒壊した家屋の垂木から飛び出ていた太い釘を、踏み抜いている。半分破れたズックが、血で赤黒く染まってゆく。純はその場に倒れ込んだ。
この直後のことを、純は覚えていない。気づけば三人組の兵隊が自分を取り囲み、足を浴衣の切れ端のような布でぐるぐると縛っていたのであった。
兵隊の一人が聞いた。「ぼく、家はどこなら」
「白島です。ほいじゃが焼けてないなっとった」
「ほうか。ほいでどこへ行こう思うとったんなら」
「コイです。コイにおじさんがおるけえ」
「己斐か。己斐なら向こうへ行かにゃあ」
「道は知っとります。横川から歩いてきたんです。大きい通りを右へ曲がってコイへ行くんです」
「ほいじゃがこかあ舟入ど。己斐へ行くんなら戻らにゃあいけん」
もう一人が口を挟んだ。どうやら純は大通りを通りすぎてしまい、そのまま南へと進んでいたようだ。
「己斐はのう、これをずっと歩いて行かにゃあいけん。ほいでのう、電車道を曲がらんと、その次を左へ曲がるんじゃ。それをずっとまっすぐ行きゃあ橋があるけえ、それを渡りゃあ己斐の駅のちいと北へ出るわい。土橋で曲がっても電車道はわやくそじゃろうて」
「ひゃっ」
兵隊の一人が奇妙な声を上げた。
「なんなら急に」
「なんでもないわい」
純は言い返す兵隊の視線の先を追った。瞼を開くと、少し離れたところに裸の女が赤ん坊を抱いて座り込んでいる。女は生きているのか死んでいるのかわからない。口を開けて、遠くをじっと見ているようであった。抱かれている赤ん坊の、頭がない。
兵隊が純の肩に手をかけ、身体ごと強く抱き寄せた。
「ぼく、立てるか。立ってみい」
純は両足に力を入れて、何度か足踏みをしてみた。その度、熱を持って痺れている左足に強い痛みが走ったが、まったく歩けないということはなかった。
「わしらは本川の方へ行くけえ、土橋まで一緒に行っちゃろう」
「ほうじゃのう、それがええ。ぼく、これへ来い」
兵隊の一人が、純をおぶってくれた。
「お父さんやらお母さんはどこへおるかわかるんか」
「それがぜんぜんわからんのです。家へ戻ったらだれもおらんかった」
「建物疎開へ行っとったんか」
「はい」
「ほうか。ご苦労さんじゃのう」
話しているうちに、土橋の交差点に着いたようだ。兵隊がしゃがんで、純を下ろした。
「わしらはこっちじゃけえ。ぼくはこの一本むこうの道を左へ行けえ」
「はい」
「よし、ほいじゃあの」
「はい」
純は一礼し、少しずつ遠ざかる兵隊たちの後ろ姿を見つめた。
少し経って、一人がこちらを振り返った。
「おいぼく、生きいよ」と、大きな声で言った。「生きにゃあいけんど」
「はい」
「ほいじゃあの。気いつけえよ」
「はい」
少し行ったところで、一人がもう一度振り返ったように見えた。両手の指でしっかりと瞼を開いているのに、視界がぼやけて仕草も表情も見えない。自分がいつから泣いていたのか、純にはわからなかった。
--続く--