己斐の駅舎は倒壊していたが、燃えたような跡はなく、辺りを見回してもどこからも煙は上がっていなかった。建物はその多くが倒れ伏せてしまっていたが、それでも純が歩いてきた市内中心部に比べると被害は少ない。地面も熱くなかった。やけどをしていない人も歩いている。純は狭く潰れた視界で少しずつ周囲の景色を確認しながら、ゆっくりと歩を進めた。
駅を通り過ぎると、小高い山が見えてきた。親戚が皆「おみやさん」と呼ぶその山が目に入り、純はその場に座りこんだ。あの山の手前を右に曲がって坂を登れば、栄太おじさんの家がある。知っている景色が、そのままではないが、残っていた。
と、安心したのも束の間であった。
遠くの方で警報が鳴り始めた。
「空襲かあ」
「防空壕じゃ」
「急げえ」
「またあれがくるんか」
あちらこちらから声が聞こえた。人々が避難している様子であった。
この時、西の山に陽が隠れ始めた頃であった。満身創痍で朝からひたすら歩き続けた純は、体力の限界をとうに過ぎていた。どこに防空壕があるかもわからず、慌ただしく駆け出す人の群れについていく気もしなかった。このまま坂を登って、栄太おじさんの家まで行こう。栄太おじさんの家は、山の上にぽつんと建っている。バクダンは落とされないはずだ。純は身体を軋ませながら立ち上がり、人の流れに沿うことなく、坂を登り始めた。警報は、まだ鳴っている。目の前を軍部のトラックが通り過ぎた。振り返って瞼を持ち上げると、遠くに見える市街地は赤く燃えさかり、黒い煙を吐き続けていた。
*
その声を聞いたのは、坂を半分ほど登った時であった。
「純」
振り返ると、小道とその脇を流れる細い川を隔てた向こうに、栄太おじさんが荷車を引いて立っていた。服が破れ、腰から上が全て黒く煤けている。
「ありゃあ、純か」
「おじさん」
「やっぱり純か、純、わしじゃあ」
それから数拍、時が止まった。
純を呼んだのは、父、祥雄の声であった。
「とうちゃん、とうちゃんか」
純は両の瞼を広げた。父が荷車を投げ出し、腰まで川に浸かりながらこちらに駆け寄ってくる。
「ありゃあ、純、純じゃ。純」
純は何が起きているのかわからない。
「よう生きとったのう。鶴見橋に行っとったんじゃろうが、あっこらへ大きいバクダンが落ちたんじゃいうて。こんなあ、よう生きとったのう」
父はどうしていいかわからず、純の肩を力強く掴み、とりあえずそうするように背中をさすった。「顔がわやくそじゃが、他は焼けとらんのか」
「うん、じゃが足がいとうていけん。クギをふんだ」
「ほうか、どれ、見せてみい」
「キレを巻いてもろうとるけえ、ようほどかん」
「ほうか。ありゃあのう、シズも恵美子も、みな河内の片山へ行っとるけえの。わしらも行くど」
「もう歩けん。おじさんのところで休ませてえ」
「さっき栄太のところに行ったんじゃが誰もおらんのじゃ。ひょっとしておまえが逃げて来とらんか思うてのう。ほいじゃが家にゃあ誰もおりゃあせんけえ、どうしょうか思いよったんじゃ。おい、あれへ乗れ。ここらも危ないじゃろう。警報も鳴りよるけえ、河内へ行くど」
純は父に連れられて少しばかり坂を下り、橋を渡って荷車の方へ歩いた。荷台には数枚の筵が敷いてあった。
「これへ横になっとれ」
純の前ではいつも不機嫌で怒ってばかりいる父が、この時、ずっと笑っているように見えた。鼓動が鳴るたびに全身に痛みが走るが、拍の合間に、純は妙なこそばゆさを感じた。
筵の上に寝転んで荷車に揺られながら、片目だけ瞼を開いてみると、茜色の空に、細切れの雲がいくつか浮かんでいる。警報は、いつの間にか止んでいた。
「とうちゃん」
「なんなら」
「ハンマーわすれた」
「は、なんのことなら」
「家から持って出たハンマー」
「なにを。そがあなもん、ええわい。寝とれ」
祥雄はそれ以上何を言うでもなく、黙って荷車を引いた。
これはぜんぶ、夢か。純は、今日という日を、まだ飲みこめずにいる。
筆者もひとつ添えさせてもらうが、この邂逅は、奇跡と言っていい。ここで祥雄が純を見つけていなければ、八十年後の今、この稿は無い。
己斐から五日市の河内村まで、純を載せた荷車を引いて夜通し歩く祥雄もまた、この偶然を信じられずにいた。
--続く--