純の目が少しずつ見えるようになったのは、十一月の終わり頃であった。爛れた皮膚の痛みが瘡蓋の痒みへと変わるまで三ヶ月、そののち瘡蓋が剥げて生まれ変わった皮膚が表に出るまで、一ヶ月半を要した。左頬の肉が緩やかな渦を巻くように重なり、垂れたままになっているが、その他の箇所は概ね元どおりになった。これでも、治りが早い方であった。医師は診察のたびに純の回復を褒めた。
「ひとりで来たんか」
「うん」
「ようなったのう。君は、ええと」医師は手元の書類をぱらぱらと捲った。
「鶴見橋か。東側におったんか」
「ええと、東いうて」
「比治山の方か」
「いや、川のこっち側です」
「ほいなら運がええわ」医師は周りに聞こえないように小声で続けた。「あっこらにおったもんは、ようけ死んでしもうとる」
純は待合の方を見回した。大勢並んでいる。顔や首のあたりに無数の黒い斑点が噴き出ている女が、ベンチに腰掛けて遠くを見つめている。左腕の、肘から先がない。
「ほい、薬を塗っとこう。もう赤チンはいらん。軟膏だけじゃ」
医師は薄い黄色をした軟膏を純の額と両頬にぽんぽんと付け、それを顔全体に伸ばした。痛みは全く感じなかった。
役場からの帰り道、足取りが軽い。顔の皮が硬くなり、蛆が湧かなくなってからは早かった。食べるものは日を追うごとに粗末になっていたが、それでも純の身体には力が漲っていくようであった。もう恵美子やフジの手を借りず、ひとりで便所へ行ける。湯で蒸した手拭いを使って身体を拭けるようにもなった。純は、つい半年前までそうだったというのに、今、自分の身体を思うままに使えることが、ただただ、うれしい。
*
玄関の引き戸が、勢いよく開いた。
「おい、おおい」出先から帰ってきた祥雄が、皆に呼びかけるように言った。
少しして、夏恵を抱いたシズが奥から歩いてきた。
「あののう、藤田さんのところで仕事させてもらうことにしたけえ、わしゃあ来週にはここを出るど。当分は藤田さんの工場の裏に建っとる小屋に住ませてもらうけえの」
障子の隙間から覗くと、父は土間でゲートルの紐をほどいている。
「仕事いうて、何ねえ」シズが怪訝そうに聞いた。
「なあに、板金よ。まあ板金いうても最初は金物を集めて回るだけじゃがのう。拵えもんやらできゃあせんもの。なんかせにゃあ、銭ものうなるで。ほいでのう、なんやら裏の敷地にもう一つ建屋を拵えて住んでもええいうて言われたんじゃ。できたら皆向こうに引っ越しゃあええわ。ひと月もありゃあできらあ。陸雄はおるんか」
陸雄とは、この家の主、祥雄の弟である。
「おらんよ。己斐へ行くいうて出て行ったんよ。あんたどしたん、赤い顔してから。酒を飲んどるんね」
「ほうよ、まあ酒いうても上澄みみたいなもんじゃがの。ありゃあ己斐行ったいうて、栄太のとこかのう」
「何も言いよらんかったわいね。ほいであんた、どこで酒やら飲んだんね」
「藤田さんとこでご馳走になったんじゃ。横川のヤミ市で買うたんじゃて」
純は隣の部屋で、黙って両親のやりとりを聞いている。白島の家は、焼け崩れたままだという。父、祥雄は牛田の藤田さんの家に住み込むと息巻いている。酒のせいか、声が大きい。
「ケン坊は結局見つかっとらんそうな。藤田さんも諦めた言いよったわい。どこの安置所へ行ってもわやくそでわかりゃあせんのじゃて。今日も己斐で降りて歩きよったら防空壕で燃やしよったわ。ありゃあ線路の枕木がよう燃えるんじゃいうて、己斐の駅裏にぎょうさん枕木が積んであるのを、あれを持って行って防空壕でずっと死んだもんを燃やしよるそうな。臭うてやれんかった。酔いが覚めたわい」
「藤田さんとこいうて、裏へ空き地があったかいね」
「裏の家が焼けとったんを片付けたんじゃそうな。じいさんばあさんが住んどったんが、両方死んでしもうたんよ。子供もおらんそうなけえ、片付けて自分のもんにしちゃろう思いよるんじゃろう。なんも言いよらんかったが、早う建てて皆連れてこいいうて言いよったわ。純、純はおるんか」
「どしたん」純は廊下越しに返した。
「一緒に牛田へ来い。バラック建てるのに材料を集めるけえ手伝え。牛田へ住みゃあ学校へ行けるど」
「学校いうて、どうせ焼けとるじゃろ」
「いやわからんど。こないだ新聞見たら学校へ行きよらんもんは早う連絡せえいうて大きゅう書いてあったわい。建物は壊れとるかもしれんが、行きよるもんもおるんじゃろう」
「はあ、牛田へ住むん」
「ほうよ。ずっとここへおってどうなろうに。白島もわやくそなままじゃのに。おう、学校へ行くんはバラックができてからど」
「うん」
「ほいでのう、後で肥を汲んどけえ。山になっとるじゃろうが。だいぶ手前から臭うたわい」
「わかった」
小さな家に九人が住んでいるので、こまめに糞便を汲み取らなければならない。難儀である。目が見えるようになってからは、これが当然のように純の仕事となっていた。牛田に行けばこの手間もなくなる。純は何度も深呼吸して、最後に大きく息を吸い込んで止めたまま、し尿の沼に柄杓を掻き込んだ。
--続く--