貯水池の西側と東側にはそれぞれ1本ずつ、南北に細長い道路が走っている。車同士がすれ違うのがやや難しいそれらの道には暗黙の慣習があり、殆どの車が西側の道を北へ、東側の道を南へ走る。道路構造のせいか、周辺を走っていてその道に辿り着くと、自然に一方通行の雰囲気になるから不思議だ。
当然「一方通行」の標識はないし、そんなローカルルールなんて知らない人もいる。そういう人は「あっ、ここ細い・・・」と気を付けながらゆっくりと走る。対向車もそれに気づき、2台はそっとすれ違う。その場所で接触事故を見たことはない。一度西側の道路を南へ走った人は、途中で「あっ、向こうを走ればいいのか」と気付くようだ。
いや、でもやっぱり危ないから、警察の人に「ここは一方通行です」と決めてほしい。
その西側の道を、毎朝(たぶん慣習を知っていて)ワザと南方向に走ってくるオッサンを見るようになって、そう思いだした。ここ数カ月の話だ。
僕はオッサンを「マトリックス」と呼んでいる。その・・・いつもかけているのだ。細いサングラスを。初めてオッサンを見た時になんとなく映画『マトリックス』が頭に浮かんで、心の中で勝手にそう呼んでいる。
マトリックスは黒のスズキWAGON-Rに乗っていて、月曜~金曜の朝8時半に、西側の道路を南に向かって走る。僕は毎朝同じ時間に、そこを北に向かって走る。僕らはほぼ毎日、すれ違う。僕が時速30キロくらいのスピードで走っていると、マトリックスは時速50キロくらいで向かってくる。道の真ん中を、ガーッと。僕はすれ違う直前でスピードを落とし、車を左に寄せて停まるけれど、マトリックスはできる限りスピードを出したい。『スピード』といえばキアヌいやなんでもない。すれ違う瞬間でも30キロくらいは出てるんじゃないだろうか。細い道、限りなく停車状態に近い僕の横をブワっと通り過ぎていく。でも本人には通り過ぎる世界がスローモーションのようにゆっくりに見えているんだろう、だってマトリいやなんでもない。マトリックスは道の真ん中をガーっと走ってきて、すれ違う直前で将棋の桂馬みたいな動きでグワっと道端に寄り、僕の横をブワっと通り過ぎていく。
なんだこのオッサンあぶねーな・・・
マトリックスは、止まらない。グワッとよけていく。ミラーは擦らない。けっこう隙間を開けて、グワッとよけていく。だからなおさらヒヤヒヤするのだ。そっちは溝だろうに、大丈夫か?いつかタイヤ落とすぞオッサン・・・
と、そんな思いするようになってから、もう3か月くらい経ったか。
むこう走れや。それかゆっくり来いや。ほんで来るなら最初から寄っとけや。直前で桂馬やめろや・・・僕はマトリックスを少し睨む・・・
と、マトリックスは、いつも何か言っている。
あるいは、何か歌っている。そんなに口を大きく開けているわけではないけれど、何か言っている。すれ違う僕の視線に気づいているのか知らないけれど、口をモゴモゴ動かして何か発している。
マトリックスが何を言っているのか、気にならなくはない。僕はマトリックスとすれ違う時、時々窓を開けるようになった。前方に黒いワゴンRが見えたらウィーンと窓を開け、すれ違う。
けれどマトリックスは、いつも窓を閉めている。だから、何を言っているのかわからない。寒い冬の朝だから仕方がない。僕は、ただただ寒い。
時々、マトリックスとすれ違わない日もある。そんな日は、なんか物足りない。ような気がする。
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1月のある朝、マトリックスは、やってしまった。
ワゴンRの左前輪が溝に落ちているのを見た時は、なんともいえない気持ちになった。本当になんともいえなかった。小田和正のラーラーラー、ララーラー♪は、名曲だと思う。
誰も南方向に走らない道の端にポツンと黒のワゴンR。不自然に斜めになった状態で、ただそこにある・・・例の桂馬みたいな動きで対向車を避けた、その弾みで道を踏み外したんだろうな。とうとうやったか。
と、すれ違う時見回したけれど、車の中にも道端にも、マトリックスはいなかった。
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あの日以来、約1ヶ月、マトリックスとすれ違っていない。
池の西側の道路を猛スピードで走ってくる車はもういない。毎日安全に通勤できている。
けれど、なんか物足りない。ような気もする。
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