飲み会で隣の席に座ったひとまわり年下の後輩O君が「オレ、最近日記つけ始めたんすよー」と言う。
「なんかー、最初はiPhoneのメモ帳にその日食べたものと体重書いてたんすよー。ほんで、だんだん何やったかとかも書くようになったんすよー。ほんで、最近はなんか文みたいなん書いてんすよ。一応日記っすね。日記なんか人生初っすよー。オレもそのうちブログとかやるかもっす」
O君は話しながら、テーブルの上のグラスを様々な角度から撮影してはインスタに載せる写真を吟味していた。
日記か、と思う。
僕も昔、日記を書いていた。
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20年ほど前、怠惰極まりない学生生活にうんざりして、何か毎日やることを取り入れてみるかと書き始めた日記だったけれど、
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"今日も酒飲んだだけ。"
"3限デシェン寝過ごした"
"AV返し忘れた"
"フーラで沈没・・・"
"広島死闘編面白かった!"
"ブッダDON’ TEST DA MASTER → 最高"
"ハイパー原始人だ。"
"パチンコ負けてもうた。"
"ライオネルリッチーみたいなおばさん出てきたぞ"
"イタリア代表すげー"
"ナンバまで行って、グリコの看板見たわ。"
(全て原文ママ)
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だらしない日々を正確に記すことで、僕の焦りは増すばかりだった。
それに加えて、友人の”ちゃんとした”エピソードが僕の怠慢を引き立たせる。
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*月*日
"Sとニュー浅草で飲んだ。あいつ **の試験に受かったらしい。すごい。俺もなんかしなきゃ"
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*月*日
"今日はいつものメンバーで講堂の階段に集まって飲んだ。今夜もUが歌の練習をしていた。来週舞台だそうだ。やりたいことあっていいなあ"
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「**の資格を取って**に就職し、その後*年で独立したい」
S君は、猛烈に資格の勉強をしていた。「なんと学生時代に**の資格を取得!」みたいなニュースになる、あのタイプだ。S君とは今でも時々飲みに行く。なんとS君、本当に語っていた通りの未来を歩んでいるからすごい。
「俺は絶対劇団四季に入る」
今は教師だけれど、大学卒業後は役者として生活していたU君は、演劇サークルで毎日歌や芝居の練習をしていた。やりたいことがはっきりしていて、それに向かって全力で生きていた。僕らが通っていた大学には講堂の前に広場があったのだけれど、U君はよくそこで劇団のメンバーと歌や芝居の練習をしていた。「しーんぱーいないさー!!!」と狂ったような大声で歌い上げるU君を、僕は他の友人と少し離れたところから眺めていた。確かにU君は何も心配してなさそうだった。
*
学生時代は特に、自分を含めた周りの友人が「思った通りに生きているやつ」と「何も考えずにただ生きているやつ」の2パターンにはっきり分かれているように見えた。S君やU君は前者。目標を立て、やることを逆算し、着実にこなし、少しずつ結果を積み上げる…誰がどう見てもグングン前に進んでいるのだった。思った通りに生きている彼らは眩しかった。
むむむ、俺も何かやらねば・・・
からの、
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よし、日記を書こう。
と、その時どうして思ったのかは、全方位的に考えても、いまだによくわからない。なんの決意やねん・・・と今でも思うのだけれど、実はこれが5年続いた。他にすることがなかったからだろうな。フォレストガンプが毎日走るように、僕も毎日毎日書いた。謎だ。よくわからんが、日記は続いた。内容は変わらない。だらしない毎日は治らない。でも書くのだ。なんでもいいから、今日も、これからもずっと書くのだ・・・。いすゞのトラックが走り続けるように、僕も書き続けた。
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O君の話を聞いて、僕は当時のことを思い出していた。そもそも、なんであんなに毎日アホみたいに書いていたのか。
「ほんで、Oはなんで日記つけようと思ったん?めんどくさくね?」という僕の質問に「えー、なんでっすかねw なんとなくっす」とO君。
うん、だよな。なんとなくだよな。なんとなくでも、書けばいいよな。
僕も、訳もわからず書いていたとはいえ、もしも日記を通して自分に「書くクセ」がついたのだとして、その流れで今こうしてブログを書いているなら、まあええわ。と、今は思う。
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田中泰延さんの著書『読みたいことを、書けばいい。』の中に、こんな一節がある。
好きで始めたことなのに、長い文章を書くのはほんとうに苦しい。腰は痛いし、とにかく眠い。途中で必ず「なぜこんなことをしているのかわからない」という気持ちが湧き上がる。自分が読んで喜ぶのは勝手だが、おれがなにを書いても読むやつなどだれもいないだろう。
だが、しかし、それを何度も積み重ねていくうちに、わたしは思いもしなかった場所に立つことになる。書いたものを読んだだれかが、予想もしなかったどこかへ、わたしを呼び寄せてくれるようになったのだ。
<田中泰延 (2019)「読みたいことを、書けばいい。』 ダイヤモンド社 P240より>
何度読んでも、しびれる。
僕にも、ブログやツイッターなど、どこかに文字を打ち込んだことがキッカケになって出会えた人たちや、起きた物事がたくさんある。僕はそれが、めちゃくちゃうれしい。
そう思う時、20年前の陰鬱が晴れる。いや、晴らす必要はないのだと開き直れる。あの頃の、あれでよかったのだ。
*
ところで日記というのは、それがどんな爆笑エピソードであっても、直後に読み返すとつまらない。もちろん個人差があると思うけれど、僕の場合、書いたものを数日後、あるいは1ヶ月後に読み返すと、びっくりするほどつまらないのだった。
じゃあ1年後はどうか。
やはりつまらない。僕は当時、読み返すたびに頭を抱えていた。
じゃあ20年後はどうか。
不思議なもので、時々、面白いところがある。頭を抱えるところが大半だけれど、時々、腹も抱える。
この、過ぎた時間と記述と感情の仕組みも、謎だし、おもしろい。
よし、ちょっとO君にアドバイスしとくか。
「Oさ、昨日おととい書いたやつを読み返してもつまらんと思うけど、それが10年20年経ったらオモロくなって、書いといてよかったなって思うかもしれんよ。せっかく始めたんなら続けてみれば?」
と言うと、食い気味に
「そーっすよね!10年とか、そんくらい経ってから読み返したらオモロいっすよねー!!」
と返ってきた。なんなんだコイツは。
はてさて、O君の達観には面食らったけれど、これは本当のことだ。いつかなにかを書いた、その時生まれた内面の変化や、書いたことで生まれる誰かとの出会いの中で自分が少しずつ変わっていくうちに、その記述と自分の間のアレがナニして面白くなるんだろう。
『読みたいことを、書けばいい。』の中には、こんな一節もある。
あなたは世界のどこかに、小さな穴を掘るように、小さな旗を立てるように、書けばいい。すると、だれかがいつか、そこを通る。
書くことは世界を狭くすることだ。しかし、その小さななにかが、あくまで結果として、あなたの世界を広くしてくれる。
<田中泰延 (2019)「読みたいことを、書けばいい。』 ダイヤモンド社 P224より>
何度読んでも、しびれる。
そこを通るだれかが、自分だった。ということもあるのだ。
おい、O、聞いとんのか。
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