晩秋某日、山奥の公園へ。
娘たちは遊具等で大はしゃぎ。僕も超ロングな滑り台など、娘と一緒に何度も滑りました。丘の上から長い滑り台が数本伸びていて、「次はあっち」「次はこっち」と娘が主張するのです。滑り降り「次はあっち」と言われれば一緒に行って階段を昇る。そしてまた滑る・・・娘を膝に乗せて・・・まさに「尻に敷かれる」という言葉の意味を噛みしめた午後なのであります。楽しいからいいけど、でも滑りすぎてちょっとお尻痛かったな。
山奥の公園、この時期は紅葉終盤。これは見応えありました。紅葉狩りを楽しむ人もチラホラ。
ところで僕は思いました。なぜ「モミジガリ」と呼ぶのでしょうか!?「狩り」・・・いや狩らねぇけどな・・・と僕は思うのであります。・・・そしてググった・・・これは平安時代、狩猟をしなくなった貴族たちが、ただ自然を愛でることに対しても「狩り」という言葉を使うようになったことが説として有力だそうですね。紅葉した木の枝を折り、手のひらにのせて鑑賞することも「狩り」と呼んだそうです。なるほど。
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ちなみに、
桜狩り 霞の下に 今日くれぬ
一夜宿かせ 春お山もり
とは鎌倉時代の歌人・藤原定家が詠んだ和歌。時代は違えど、当時「桜狩り」という言葉が使われていたことを知って、前述の説に納得した次第です。
藤原定家はあの百人一首の選者として有名ですね。方々の名歌人100人の作品を1作ずつ集めて百人一首を編纂しました。今で言うところの「コンピレーションアルバム」です。ただし、売り場の隅にある「泣ける歌2017」とか「NON STOP REGGAE MIX2017」みたいな、そういう軽さは微塵もない。百人一首はその後800年に渡って親しまれている日本文化の宝ですから。その存在感、重厚感は異次元なのであります。
うむ。「紅葉狩り」という言葉、十分に歴史に裏打ちされていて、もうとやかく言わずに今後は普通に使おうと思ったのでした。
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陽は差すものの、辺りを吹き抜けるは晩秋の冷たい風。冬はもうすぐそこまで来ていますね。今週は急激に気温が下がるとか。皆様ご自愛ください。
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